宝暦治水の記事


木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:59:15, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 12 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm f/4G, 撮影地, 潮位, 月齢:1.7, 中潮)
カテゴリ: 200908木曽三川  

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治水史I 江戸時代中期
宝暦治水

 木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で河床が低くなっており、その河筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていたため、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り返していました。徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤(おかこいづつみ)の完成(1609年)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます多くなりました。その後、徳川幕府は宝暦3年(1753年)美濃郡代 伊沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべいためなが)がたてた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩(現在の鹿児島県)に命じました。宝暦4年2月(1754年)、薩摩藩家老の平田靭負(ひらたゆきえ)を総奉行として工事が始められ、油島締切(あぶらじましめきり)、大榑川洗堰(おおぐれがわあらいぜき)、逆川洗堰締切(ぎゃくがわあらいぜきしめきり)などの大工事(宝暦治水)を1年3ヶ月で完成しました。が、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。
 宝暦治水では、三川の完全分流はできませんでしたが、近代治水工事の先駆けとなったものといえるでしょう。


木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:59:27, NIKON D200, F8.0, 1/1000, 0, ISO:100, 12 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm f/4G, 撮影地, 潮位, 月齢:1.7, 中潮)
カテゴリ: 200908木曽三川  

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江戸時代までの治水工事

 濃尾平野の低平地に住んでいた人々は、どのようにして洪水から身を守ろうとしたのでしょうか。

築捨堤(つきすてづつみ)(800年頃~)
木曽三川は、洪水のたびに流れを変えるため、人々は、少し高くなっている自然堤防の上に家を建て、上流側に堤防(築捨堤)を築き、洪水の直撃を避けました。しかし、田畑は、浸水や流れてきた土砂によって度々被害を受けました。

水屋(みずや)(1000年頃~)
母屋より多角石垣を築き、食料などの保管した水屋を建て、洪水の間そこで避難生活しました。また水屋が危なくなるときのために軒下に舟を吊り下げていました。

輪中(わじゅう)(1300~1900年頃)
その後、洪水から村を守り、新田を開発しようとする人々の努力により、堤防が補強され、集落全体を輪のように囲んだ輪中堤ができました。しかし、洪水の度に河床は土砂が堆積して輪中内の地盤より高くなり、田畑の排泄が悪くなったので、田畑の一部をつぶし、その土で高い所(堀田:ほりた)をつくり、そこで耕作を行いました。

御囲堤(おかこいづつみ)(1609年)
徳川幕府は、尾張国(現在の愛知県)への豊臣方西国大名の侵入を防ぐため、犬山から弥富まで12里(約48km)の尾張を囲う大堤防(御囲堤)を築かせました。またこの堤防は、尾張を木曽川の洪水から守るために威力を発揮し、補強が続けられ、要所には本堤と同じ堤防が二重、三重に築かれました。しかし、対岸の美濃国(現在の岐阜県)では、本格的な堤防を築くことを許されなかったため、かつては水害の起きなかった地域にまで水害が広がり、新たに輪中がつくられるようになりました。


  

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