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大塚本陣跡&脇本陣「駿河屋」跡

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(2009:08:22 13:10:45, NIKON D200, F8.0, 1/125, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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七里の渡跡の上流側に建つ2棟の建物「山月」と「船津屋」がそれぞれ脇本陣跡と大塚本陣跡になっていた。下流側が脇本陣の駿河屋。上流側が大塚本陣の船津屋にあたり、船津屋には歌行燈句碑も置かれていた。






大塚本陣跡&脇本陣「駿河屋」跡

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(2009:08:22 13:11:04, NIKON D200, F8.0, 1/100, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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七里の渡跡の上流側に建つ2棟の建物「山月」と「船津屋」がそれぞれ脇本陣跡と大塚本陣跡になっていた。下流側が脇本陣の駿河屋。上流側が大塚本陣の船津屋にあたり、船津屋には歌行燈句碑も置かれていた。






大塚本陣跡&脇本陣「駿河屋」跡

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(2009:08:22 13:11:18, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 15.0 mm(換算22 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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七里の渡跡の上流側に建つ2棟の建物「山月」と「船津屋」がそれぞれ脇本陣跡と大塚本陣跡になっていた。下流側が脇本陣の駿河屋。上流側が大塚本陣の船津屋にあたり、船津屋には歌行燈句碑も置かれていた。



歌行燈句碑(うたあんどんくひ)

かはをそに
火をぬすまれて
あけやすき


 明治の文豪・泉鏡花(1873~1939年)は大泉原村(現・いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909年)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿・大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。
 昭和14年(1939年)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963年)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巴喜男の監督で映画化された。上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
 船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
 俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
 自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本建吉画伯がデザインしたもので昭和31年6月に建てられた。

平成18年6月 寄贈 桑名三田会



七里の渡跡

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(2009:08:22 13:09:23, NIKON D200, F8.0, 1/200, +2/3, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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江戸時代に栄えた「七里の渡し」はここと宮宿(名古屋市熱田区)を結ぶ海路だったらしい。

現在は裏手に伸びた運河に小船が繋留されている程度で特に使われていない。ここもカニが多く、水中にブラックバスの小さいのが数匹見えた。最後の写真で奥手に見える白い建物は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。






七里の渡跡

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(2009:08:22 13:09:52, NIKON D200, F8.0, 1/180, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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江戸時代に栄えた「七里の渡し」はここと宮宿(名古屋市熱田区)を結ぶ海路だったらしい。

現在は裏手に伸びた運河に小船が繋留されている程度で特に使われていない。ここもカニが多く、水中にブラックバスの小さいのが数匹見えた。最後の写真で奥手に見える白い建物は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。






七里の渡跡

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(2009:08:22 13:05:52, NIKON D200, F8.0, 1/100, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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江戸時代に栄えた「七里の渡し」はここと宮宿(名古屋市熱田区)を結ぶ海路だったらしい。

現在は裏手に伸びた運河に小船が繋留されている程度で特に使われていない。ここもカニが多く、水中にブラックバスの小さいのが数匹見えた。最後の写真で奥手に見える白い建物は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。



東海道五十三次 七里の渡跡

 桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28km)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789年)に建てられました。
 七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
 昭和33年(1958年)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959年)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。



七里の渡跡

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(2009:08:22 13:03:38, NIKON D200, F8.0, 1/125, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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江戸時代に栄えた「七里の渡し」はここと宮宿(名古屋市熱田区)を結ぶ海路だったらしい。

現在は裏手に伸びた運河に小船が繋留されている程度で特に使われていない。ここもカニが多く、水中にブラックバスの小さいのが数匹見えた。最後の写真で奥手に見える白い建物は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。






七里の渡跡

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(2009:08:22 13:07:55, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

_DSC5203.jpg _DSC5206.jpg _DSC5197.jpg _DSC5196.jpg _DSC5200.jpg

江戸時代に栄えた「七里の渡し」はここと宮宿(名古屋市熱田区)を結ぶ海路だったらしい。

現在は裏手に伸びた運河に小船が繋留されている程度で特に使われていない。ここもカニが多く、水中にブラックバスの小さいのが数匹見えた。最後の写真で奥手に見える白い建物は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。






蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

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(2009:08:22 12:59:42, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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九華公園のすぐ近く、揖斐川沿いにある建物です。この蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は水門統合管理所に気持ち程度の展示を加えた施設です。大きい窓もないため見える景色は微妙。展示物も数点のみという感じ。

 



水門統合管理所

水門統合管理所の概要
 管理所周辺は、城跡や名所旧跡・レクリエーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
 揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして警官に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮系開示に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を配慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。
 管理所は、かつて桑名城の隅櫓(すみやぐら)の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の概観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701年)に天守が消失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。


蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)について
 桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して立てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~1648年)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802年)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造(たんそういりもやづくり)の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は木を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
 文化3年(1806年)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。



蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

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(2009:08:22 12:59:50, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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九華公園のすぐ近く、揖斐川沿いにある建物です。この蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は水門統合管理所に気持ち程度の展示を加えた施設です。大きい窓もないため見える景色は微妙。展示物も数点のみという感じ。

 



水門統合管理所

水門統合管理所の概要
 管理所周辺は、城跡や名所旧跡・レクリエーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
 揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして警官に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮系開示に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を配慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。
 管理所は、かつて桑名城の隅櫓(すみやぐら)の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の概観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701年)に天守が消失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。


蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)について
 桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して立てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~1648年)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802年)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造(たんそういりもやづくり)の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は木を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
 文化3年(1806年)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。



蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

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(2009:08:22 13:00:43, NIKON D200, F8.0, 1/90, 0, ISO:800, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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九華公園のすぐ近く、揖斐川沿いにある建物です。この蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は水門統合管理所に気持ち程度の展示を加えた施設です。大きい窓もないため見える景色は微妙。展示物も数点のみという感じ。

 






蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

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(2009:08:22 13:02:29, NIKON D200, F8.0, 1/350, 0, ISO:250, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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九華公園のすぐ近く、揖斐川沿いにある建物です。この蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は水門統合管理所に気持ち程度の展示を加えた施設です。大きい窓もないため見える景色は微妙。展示物も数点のみという感じ。

 






木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:57:08, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 






木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:58:07, NIKON D200, F8.0, 1/400, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 






木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:57:48, NIKON D200, F8.0, 1/500, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 



治水史III 現在
伊勢湾台風以降の治水整備

 明治改修以降も、洪水は数々の被害をもたらしました。その中でとくに忘れられないのが昭和34年9月26日に上陸し、観測史上最大の水害をもたらした伊勢湾台風です。被害のほとんどが東海地方に集中し、愛知・岐阜・三重3県下で死者・行方不明4637人、被害者約120万人という大惨事になったのです。被害の大きな原因は、高潮の発生でした。当時の小さな堤防は次々と壊れ、村や町は泥海の中にのみこまれてしまったのです。水との闘いは台風が過ぎ去った後も長く続きました。なぜなら、木曽三川下流部では、海面よりも低い土地が多かったため、なかなか水かひかず一般国道1号、当時の国鉄関西本線、近鉄名古屋線などの各交通機関もいたるところで分断されてマヒ状態となりました。衛生状態も悪くなり、赤痢患者も多数発生しました。伊勢湾台風の教訓はその後、」地下水利用制限などの地盤低下対策や、高潮対策事業にいかされ、堤防の高さや構造などが見直されました。



木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:57:32, NIKON D200, F8.0, 1/800, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 



現在の治水事業

 現在の木曽三川は、上流部では洪水を調節する新丸山ダム徳山ダムなどの治水ダムや土砂の流出を抑制するための砂防ダムの建設、中・下流部では築堤や浚渫(しゅんせつ)などの河道改修や、低いところに溜まる雨水を排泄するポンプ場の建設、樋管(ひかん)などの改築、河口部では高潮対策のための堤防補強などいろいろな工事を進めています。


木曽三川下流域でのおもな事業

長良川大規模浚渫と河口堰の建設
長良川は、明治改修によって新しい河道が開削され、木曽川や揖斐川と流れを分ける治水工事が行われましたが、その後の流域の発展や度重なる洪水被害の発生により、治水に対する抜本的対策が求められています。しかし長良川は、揖斐川や木曽川のように上流部に治水ダムを建設できる場所が少なく、山地に降った雨は一気に流れてきます。そこで、河道の断面を大きくし、洪水時の推移を下げることにより、支川からの排水を良くし、堤防にかかる負担を軽減させるため、大規模な浚渫工事を行っています。また、川床を掘削すると塩水が現在より上流部まで上るようになるため、これを防止する潮止め堰として河口堰を建設します。

河道改修
堤防の安全性を高めるため、堤防の拡幅やかさ上げ工事、護岸や高水敷造成工事を行っています。また、漏水箇所については、高水敷の造成や鋼矢板を用いた漏水対策や、浸透水を安全に排泄するドレーン工などの対策を行っています。

高潮対策
伊勢湾台風後に全長約21kmの高潮堤防がつくられました。しかし、地盤沈下によって機能が低くなったため、堤防のかさ上げ工事が行われました。更に高潮に対して一層安全となるよう高潮堤防の補強を行っています。

内水対策
私たちの住んでいる地域は土地が低いため、水門を設けて洪水の逆流を防いでいます。でも、大雨が降ると出口を失った水がたまり、浸水し続けてしまいます。そこでたまった水(内水)をポンプでくみ上げ、本川へ流す排水ポンプ場(城南、長島、沢北、高須排水機場等)を建設しています。

河川環境整備
歴史的文化遺産を保全し、河川とのふれあい、親しまれる水辺の環境をつくりだすために、船頭平閘門、千本松原、七里の渡し跡等で遊歩道の整備や修景を行っています。

国営木曽三川公園整備
国営木曽三川公園は、木曽三川のもつ広大な河川空間を活用して、東海地方の●●●のレクリエーション需要の増大と多様化に応えるため、わが国最大規模の国営公園として、整備を行っています。



これからの治水事業

変化に富んだ美しい地形、季節感あふれる気候といった自然環境は、わが国の貴重な財産ですが、その反面、洪水の被害を受けやすい自然条件になっています。流域の発展とともに、河川の氾濫区域への人口、資産の集中が進み、ますます治水対策の必要性も高まっています。一方、河川には、豊かな自然、美しい景観があり、人々のこころにやすらぎと、潤いを与えてくれます。
 より安全で自然にやさしい河川づくりが今、求められています。


平成4年3月



木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:58:29, NIKON D200, F8.0, 1/500, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

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九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 



治水史II 明治時代
明治改修

 江戸時代には、宝暦治水をはじめ数々の工事が行われましたが、当時の財政、河川行政、河川技術では、木曽三川の完全な分流を行うことができませんでした。明治時代になると鎖国がとかれ、外国の技術が次々と入ってくるようになってきました。明治政府は、すぐれた水工技術をもっていたオランダから10人の技師団を招き、河川・港湾事業を進めました。オランダ技師団のひとりヨハネス・デ・レーケは、木曽三川の流域を詳しく調査・測量し、改修計画を策定しました。
 この計画をもとに明治20年(1887年)から改修(明治改修)が着手されましたが、明治24年(1891年)の濃尾大震災や度重なる洪水などにより工事は難航しました。政府は、明治29年に河川法、同30年に砂防法、同33年には土地収用法を定め、工事の進捗を図った結果、着工から26年後の明治45年(1912年)にすべての工事が完了しました。
 この明治改修により、木曽三川の流れは大きく姿を変え、以後の流域の洪水被害は大幅に少なくなりました。



木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:58:45, NIKON D200, F8.0, 1/1000, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

_DSC5151.jpg _DSC5159.jpg _DSC5156.jpg _DSC5153.jpg _DSC5161.jpg _DSC5164.jpg _DSC5165.jpg _DSC5167.jpg _DSC5170.jpg

九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 



明治時代の治水工事

 オランダ技師ヨハネス・デ・レーケ(Johannis de Rijke 1842~1913年)が情熱を注いだ明治改修の工事とは、どのようなものだったのでしょうか。

浚渫(しゅんせつ)
河道を拡げたり、新しい川を切り開くために行われた掘削工事で、人力掘削や、オランダから購入したポンプ式浚渫船などにより、約2580立方メートル(11tダンプトラック約420万台分)もの土砂が掘削されました。また、新川の開削により、約1800戸の家屋移転と、約2900ヘクタール(名古屋球場の約762倍)の用地買収が行われました。

築堤(ちくてい)
三川を分流するための締切堤(しめきりてい)の築堤と、新しい河道の開削に伴う新堤の築堤が行われました。新堤の築堤は、総延長が約57kmにもなり、築堤に用いた土砂は1690万立方メートルで、そのほとんどは浚渫土砂が使われました。また、佐屋川(さやかわ)、大榑川(おおぐれかわ)などの締切により、もともと河川であった広大な土地が、新しい耕地として生まれ変わりました。

水制(すいせい)
水の強い流れを川の中心に寄せ、河道の安定と航路維持のために、木曽三川で393箇所、総延長で66kmもの水制がつくられました。川岸より長く伸びた玉石のケレップ水制や丸太の杭出し水制は、今も木曽三川の独特の景観となっています。

導流堤(どうりゅうてい)
河口部に土砂がたまるのを防ぎ、水深を保って航路を確保するために、木曽川の河口に4680m、揖斐川の河口に5480mつくられました。

船頭平閘門(せんどひらこうもん)
当時は水運が主要な口中手段であったため、三川分流工事によって、木曽川から桑名への最短ルートが無くならないよう、愛知県海部郡立田村福原(当時の船頭平村)に船通しの閘門(船頭平閘門)をつくり、木曽川と長良川とを結ぶ航路を残しました。



木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:58:48, NIKON D200, F8.0, 1/500, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


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九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 



明治時代の治水工事

 オランダ技師ヨハネス・デ・レーケ(Johannis de Rijke 1842~1913年)が情熱を注いだ明治改修の工事とは、どのようなものだったのでしょうか。

浚渫(しゅんせつ)
河道を拡げたり、新しい川を切り開くために行われた掘削工事で、人力掘削や、オランダから購入したポンプ式浚渫船などにより、約2580立方メートル(11tダンプトラック約420万台分)もの土砂が掘削されました。また、新川の開削により、約1800戸の家屋移転と、約2900ヘクタール(名古屋球場の約762倍)の用地買収が行われました。

築堤(ちくてい)
三川を分流するための締切堤(しめきりてい)の築堤と、新しい河道の開削に伴う新堤の築堤が行われました。新堤の築堤は、総延長が約57kmにもなり、築堤に用いた土砂は1690万立方メートルで、そのほとんどは浚渫土砂が使われました。また、佐屋川(さやかわ)、大榑川(おおぐれかわ)などの締切により、もともと河川であった広大な土地が、新しい耕地として生まれ変わりました。

水制(すいせい)
水の強い流れを川の中心に寄せ、河道の安定と航路維持のために、木曽三川で393箇所、総延長で66kmもの水制がつくられました。川岸より長く伸びた玉石のケレップ水制や丸太の杭出し水制は、今も木曽三川の独特の景観となっています。

導流堤(どうりゅうてい)
河口部に土砂がたまるのを防ぎ、水深を保って航路を確保するために、木曽川の河口に4680m、揖斐川の河口に5480mつくられました。

船頭平閘門(せんどひらこうもん)
当時は水運が主要な口中手段であったため、三川分流工事によって、木曽川から桑名への最短ルートが無くならないよう、愛知県海部郡立田村福原(当時の船頭平村)に船通しの閘門(船頭平閘門)をつくり、木曽川と長良川とを結ぶ航路を残しました。



木曽三川の治水史

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(2009:08:22 12:59:15, NIKON D200, F8.0, 1/320, 0, ISO:100, 12.0 mm(換算18 mm), AF-S DX Nikkor 12-24mm F4G, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


(この記事は現在移行作業中のため、他記事と文章が重複している可能性があります。ご了承下さい。)

_DSC5151.jpg _DSC5159.jpg _DSC5156.jpg _DSC5153.jpg _DSC5161.jpg _DSC5164.jpg _DSC5165.jpg _DSC5167.jpg _DSC5170.jpg

九華公園の揖斐川沿い入船門の上流側の公園。

写真には写っていないが、すぐ正面に治水のために水門統合管理所=蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)があることもあり、この公園には3枚の治水に関する看板が設置されていた。それぞれ江戸時代の宝暦治水、明治の明治治水、そして現代の治水について説明されていた。

看板に太陽が当たる裏側は劣化が激しく一部読めない部分もあった。

 



治水史I 江戸時代中期
宝暦治水

 木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で河床が低くなっており、その河筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていたため、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り返していました。徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤(おかこいづつみ)の完成(1609年)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます多くなりました。その後、徳川幕府は宝暦3年(1753年)美濃郡代 伊沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべいためなが)がたてた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩(現在の鹿児島県)に命じました。宝暦4年2月(1754年)、薩摩藩家老の平田靭負(ひらたゆきえ)を総奉行として工事が始められ、油島締切(あぶらじましめきり)、大榑川洗堰(おおぐれがわあらいぜき)、逆川洗堰締切(ぎゃくがわあらいぜきしめきり)などの大工事(宝暦治水)を1年3ヶ月で完成しました。が、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。
 宝暦治水では、三川の完全分流はできませんでしたが、近代治水工事の先駆けとなったものといえるでしょう。



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