• 地図内の宿泊施設/画像の表示設定
    ホテルを表示
    宿泊費情報のないホテルも表示
    1人で泊まれるホテルのみ表示
    宿泊費が円のホテルを表示
    画像を表示

長浜城跡

|
(2010:09:18 09:28:37, NIKON D300, F10.0, 1/400, 0, ISO:200, 16.0 mm(換算24 mm), 16.0-85.0 mm f/3.5-5.6, 撮影地, 周辺ホテル, 潮位)


長浜城のはじまりと終わり

長浜城が城として使われたのは、戦国時代の終わりの天正7年(1579年)~天正18年(1590年)頃と考えられています。
天正7年の記録では、城の建設に関する内容が書かれており、また、北条水軍の責任者が長浜に配置されています。
一方、天正18念の記録からは、最終的にこの地の土豪(有力者)が、武将として城に立てこもり、敵に備えたことがわかっています。
しかし、豊臣秀吉の攻撃によって、三島市にある山中城が落城するなど、その影響で長浜城も廃城になったと考えられます。


長浜城略史

永禄11年(1568年)
武田信玄、三国(甲斐・相模・駿河)同盟を捨てて駿河へ侵攻する。

永禄12年(1569年)
今川氏真が北条氏直に駿河国(今の静岡県)をわたす。

天正7年(1579年)
武田勝頼が三枚橋城を築く。
武田勝頼が黄瀬川に出陣し、北条氏政と戦う。
11月7日、北条氏が長浜に軍船を泊める港をつくる。(豆州内浦漁民史料)
12月19日、北条氏が長浜に北条水軍の将である梶原氏を配置する。(植松文書)

天正8年(1580年)
武田勝頼が浮島原に出陣し、対抗して北条方も出陣する。
3月15日、北条氏と武田氏が駿河湾海戦をする。(北条五代記、甲陽軍鑑、駿河雑志)

天正9年(1581年)
武田氏の水軍の将である小浜伊勢守が久龍津(今の久料)で北条水軍と戦う。(小浜文書)

天正10年(1582年)
3月、武田氏が滅ぶ。
6月、本能寺の変

天正17年(1589年)
11月24日、豊臣秀吉が北条氏直に宣戦布告する。
12月19日、北条氏が韮山城を守っていた大藤与七に足軽80人で長浜城を守ることを命ずる。(大藤文書)

天正18年(1590年)
2月27日、豊臣水軍が清水(今の清水港)に到着する。
2月28日、北条氏政が大川氏が長浜城に立てこもることを認める。(大川文書)
3月29日、豊臣軍が山中城・韮山城を攻める。
4月1日、豊臣水軍が下田城を攻める。
6月、韮山城が開城。
7月、北条氏直が降伏する。


戦国時代の山城の構造

戦国時代に築かれた城の多くは山城です。山城では、野山を削り、あmたその土を積んで曲輪と呼ばれる平場をつくります。曲輪は複数つくられ、その間に堀と土塁をつくります。
堀は、地面を掘り込んだ空堀で、土塁は堀を掘った土を積み上げた土手です。空堀と土塁はセットになっており、敵の侵入を防ぐために大きな効果があります。複数ある曲輪は、最も重要な曲輪を守るように配置されています。


長浜城の構造と見所

戦国時代の水軍の拠点の多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城で、海側と陸側で見所が異なります。
海側には、最も高いところにある第一曲輪を中心に、海と山に向かって曲輪がL字のように配置されているなど、北条氏の城の特徴を見ることができます。
一方、陸側には、敵の侵入に備えて、山城の特徴である多数の土塁や、空堀、尾根を切断するように作られた堀切もみることができます。



前後の画像

前の画像 次の画像

カテゴリ